泡沫のポケット

見る予定の映画が溜まるのは少し気詰まりだ。毎週楽しみなドラマがある事も、同時に生活のプレッシャーになる。

でも本なら、読まずに置いていてもあまり負担にならない。

 

朝の通勤電車で本を読むことは不可能に近く、帰りの電車では疲れて文章を追うことが出来ない。それでもリュックにはいつも本を1冊入れている。

延々読み終わらなくてただの荷物だったりするけれど、例えば急に旅に出たくなってどこかに行くことが容易く出来るし、実際はそんなことしないんだけど、逃口があること、それが文庫本サイズで携帯できることは、かなりお得な感じがする。

世界の終わりに取り残されても、東上線が運行停止しても、夫が待ち合わせに遅れても、本があればまあ当面大丈夫だ。

 

読んでいない本が積み上がっていくのを「積読」と言うらしい。わたしが積読に平気で居られるのには、ちゃんと理由がある。いつか必ず読めるから。

当たり前に聞こえるけれど、わたしにとっては重大で、わたしは自分の読書の能力を信用している。

鬱っぽかったり、時間や体力が無かったり、読書はいつも後回しだ。だけど何年後でも、多分わたしはその本を読むから大丈夫。大丈夫なのです。

 

 

せっかちなので、生活に未解決の事柄があると気分が悪い。

機械が壊れているとか、献立が決まらないとか、洗い物がそのままにされているとか、仕事の契約日数をどうするかとか、全部サッサと片をつけたいんだけど、体調が悪いとそうもいかない。こういうことに優先順位をつけるのも一苦労だし。

なので、とりあえず読書をしてもいい状態を目指して頑張る。洗い物をして部屋を軽く片付けたら、一旦ソファに座っていい。仕事のことは夫に相談して、壊れたプリンタと時計のことは年が明けてから考えればいいや。献立は明日の電車で考えよう。

そうしてソファに座ったら、疲れて本なんて読めないんだけど、それは大丈夫なのでわたしは慌てない。大丈夫じゃないことは終わって、1日が終わる。明日も読む暇がないだろう本を、リュックに戻す。

 

 

今日は朝起きられなかった。

布団の中から会社に電話して、電話が切れるとまた夕方まで眠った。人として最悪だし、有給を申請しそびれて勤怠評価も終わった。

夫は今週は夜勤なので家に居たのだけれど、わたしが起きると笑いながら「寝たねぇ」と言い、牛丼を買いに行った。

牛丼を食べた後彼は夜勤に出かけたけれど、電車の中では最近は電子書籍を読むんだって。電子書籍の漫画。

 

 

本棚の整理をする度に、夫は「伊坂幸太郎は仕舞ったらダメだから!」と言う。電子書籍にはきっと伊坂幸太郎だってあると思うんだけど、手に取れる所に『ゴールデンスランバー』とか『モダンタイムス』があることは、彼にとっての大丈夫なことなのかも、と少し思う。伊坂幸太郎は何年も本棚のスタメンだ。

わたしの段は背表紙の色別にグラデーションに並べているので、作家はバラバラだ。でも白の背表紙に『海の仙人』があって、紫に『心臓抜き』があって、黄色には『キッチン』があって、と言う具合にちゃんと忘れない。大丈夫なんです。

 

引っ越しをする時、家のあちこちから本の栞が出てきた。

夫はいつも「栞がない」と言って探していて、わたしはその辺で拾った栞を渡すのだけど、翌日また家で同じ栞を拾う。彼はまた「栞がどこかにいった」と言うので、なかなかシュールだった。彼が本を読みながら、栞を放り投げているのを目撃しているからね。

今の家でも玄関と食卓の下で、長方形の紙ペラをいくつか拾った。彼が電子書籍にハマってからは栞の落し物は見なくなったんだけど、伊坂幸太郎の本にたっぷり挟んであるので、いつでも文庫本に戻ってきていいんだよ。

 

 

「安心なー僕ーらは旅に出ようぜー」と鼻歌(くるり・バラの花)を歌いながらグラデーションの背表紙を眺める。ボリス・ヴィアンの『日々の泡』と新訳の『うたかたの日々』の間に、中島らもの『アマニタ・パンセリナ』が挟まっていてなんだか笑う。

ジンジャーエール買って飲んだーこんな味だったーけなー」と『日々の泡』に手を掛けたところで、上の段から栞が1枚ヒラリと落ちてきて、なんだかすとんと安心なポケットに入ったのでした。

日々の泡は、ミシェル・ゴンドリーの映画が忠実で好きです。

明日は仕事に行くぞ。