軽蔑

LGBTは生産性がないので支援する必要がない」という、どこから突っ込むか迷うくらい全てが明確に間違っている文字列を、総理大臣が推している女性の国会議員が誌面に寄稿して問題になっている。基本的人権とは。


生産性というのはこの人の認識で言う場合、子供を産む=生産性有ということらしいけど、国に寄与しない=生産性が無いという意味にも取れ、そうなると誰でも状況次第で国から見捨てられる可能性はある。例えば、よく精神病院に長期入院している統合失調症認知症の人達、彼らはずっとそこで暮らしていて、多分障害年金を貰っている人も生活保護の人も居ると思う。入院しているわけで働いてはいないし、病院で子供は作れないし、国に対して何か生産性があるわけじゃない。だけれど治療や生活の為に支援は必要だ。そういう本来福祉としてあるべき姿の社会福祉そのものを否定することに、くだんの発言はまっすぐと繋がっているように思う。

わたしの認識では、人は生まれながらにして平等で、バカもクズも男も女も子供も老人も障害者も病人も右翼も左翼も平和主義者もサイコパスも差別主義者も善人も悪人もLGBT杉田水脈も、とにかく全ての人間は人権を尊重される必要があるということに、世界の人類は規定されていたと思うけど。

福祉全般を否定する意図の発言でなく、子供を産まないLGBTへの支援に限定したものであっても(それも誤った考えだけど)、その意識の根底は繋がっていることに、国会議員であれば当たり前に気がついてほしい。まあ、わかっててやってるんでしょうけれど。

もともと差別発言していてそのパフォーマンス込みで立場を得ている人らしいので、政治家として醜悪で、人間として悲しく、同じ女性として考えると死ぬほど気が滅入るけれど、多分この先も謝罪や訂正どころか、同じような差別発言を繰り返すと思う。この人を擁護する人が存在していることも頭が痛くなるし、ああ、わたしはこんなにクソな世界で暮らしていたのか、と絶望的な気持ちになる。

利権の絡んだ煽動と、無意識の差別と、それらに居場所を作ることを許す一般的な無関心が、正直に言うとそれは罪だと思う。ギルティ、有罪という意味です。


『健康で文化的な最低限度の生活』というドラマを毎週観ている。市役所に就職した女の子が、生活保護ケースワーカーに配属されて働く中での話で、知らないことも多くて面白い。ドラマなので人情的な所も多いし、仕事として整合性が無い気がする所もあるんだけど、社会の良心的な側面とそうでない側面を、具体的な状況から想像出来ると思う。

ドラマの好みなんて人それぞれなので、誰が何を観てようがどうでもいい。でも友達や会社の人が、「生活保護のやつは1話で見るのやめちゃった、なんとなく」とか「重いから」と言うのを聞いていると、ちょっとしょんぼりしてしまう。同じことは社会派の映画や、戦争の話にも言える。共通事項は、自分がしんどくなるから観ない、ということ。トラウマになるから『はだしのゲン』を見せないという主義の、もっと広域の自己規制バージョンだと思う。

わたしはこの負荷を避ける選択自体は、全然異論はない。それこそ好きずきだから。

でも少しだけ引っかかる気持ちはある。個人的な、わたしのエゴで、勝手に引っかかっているだけだけど。重くてしんどいことでも、現実に他の人に今起こっている事象であって、当事者が困っているのであれば、無関心でいるのはどうなんだろう。ドラマや映画はフィクションで、今そこで何か起こっているのではないかもしれない。でも、知りたくないのだろうか。正しさのバランスをとって誠実さを保とうと思う場合に、広範囲でいろんな角度の知識を蓄えることが必要だと思う。わたしは賢くて優しい人になりたいんだけど、みんなはそこまで賢くなりたいと思ってないように見えてしまって、そのことがとてもとても淋しい。

まあでも、色々見ても賢くなるどころか、わたしは愚かだってことを人生はいちいち念押しで教えてくれるだけだけど。

全部はわたしの思い違いだとは思う。


みんなが、自分の置かれている状況以外のことにかなり無関心で、例えば『万引き家族』に転落する可能性は全員にあると思うけど、その危機感と既にそうある人への協調みたいなものを、負荷なので持たないようにしていると感じる。それは必要な自己防衛で正しい。自分の生活を優先するのは当たり前だ。

でも、じゃあ誰が気にするのか。差別や貧困や絶望や機会の不公平を、そのままにしていいのか。想像力に蓋をしてしまって、気が付かないでいいのかな。

わたしは嫌だけど。でもみんなは気が付かない方が好きなのかも。

ニュースで流れる社会問題について考えたり、それなりの意見を持つ人は、例えばネットでは多く見られても、友達や家族に議論できる人が居るかというと、居ないもの。

それで、皆はわたしに「あまり深く考え過ぎないで」と言う。わたしの心が削られるので、そんな犠牲を払ってまで、直接関係のない出来事のことを考えるのは、優先順位がおかしいんだと言う。

わたしは、何故みんなはわたしくらいに世界のこと考えてくれないんだろう、と思う。そうやって誰も考えないし言わないから、クソみたいな差別思想がそれなりの居場所を得てるんじゃないの。

わたしはトラウマになって暫く眠れなくても小学生は『はだしのゲン』を見るべきで、その「死ぬほど怖い」気持ちを負うのを強制的に感じるのはわかるけど、そもそも原爆で強制的に死んだり強制的に悲惨な目に会った人が居て作られた物語なので、そのことにほんの少し寄り添うことは、悪いことじゃない気がすると思っている。

他人の生や死への想像力の欠如って、教養の欠如というか、思慮浅いんだと思う。今攻撃的な気持ちなので言わせてもらいますが、わたしは我関せずという姿勢は、軽蔑してます。

だってこの世界の問題は、全て遠巻きには「我」に繋がるし「我」の家族にも繋がると思うよ。

障害者も移民も犯罪者も被害者も、いつかはあなたやわたしかもしれないのに。


それでも、「抱えきれないから、色々難しい知らない人のことを考えるのはやめて、とりあえず家族の健康とご飯のことを考える」と友達に言われて、完全にこれが正しいなと思った。わたしは傲慢ですね。

身近なところから良心と理性を持って生活したいと思い、今日スーパーで値段が小さくて読めない老婦人が、これいくら?と怒鳴っており、周りの数人が無視して固まっていたので、わたしは果物の値段をそれぞれ教えてあげました。彼女は1ミリも感謝せず、値段を確認するとスタスタと去っていったけど、その様子が面白くて笑ってしまった。多分どれも思ったより高かったんだと思う。

取り残されたわたしがプラムを見ながら1人で笑っているので、後から来た眼鏡のサラリーマンが後ずさりしていた。


15年ぶりに火星が近づいているので、毎晩火星を確認している。オレンジの強い光の点は、あれが火星なんだろうけど、人工物のような明るさで、なんだか嘘物みたいだと思う。

お腹を見せて道に転がっているセミを、いちいちひっくり返して歩くんだけど、今のところセミ爆弾は2回しか遭遇していない。 

車に轢かれたセミおせんべいは、この夏既に3回見ました。