call my name

沿線で今年6度目の人身事故があった。何度目かの自殺は確か最寄駅の構内で起きていたと思う。正直に、苦しい。


車内は殺伐としていた。振替輸送の電車に乗ったのは良いけれど、駅員さんに入口から押されて人間が粘土みたいにこねくり回されている状況で、わたしもその一員だった。帰宅ラッシュの時間帯だったので、疲労した人々はなされるがままという感じ。誰かの舌打ちが、力無い抗議が、無意味に響くだけ。

ちょっと年配目の1人のおばさんが一反木綿の様になってしまっていて、華奢だし骨折とかあり得る曲がり方だったので、思わず「大丈夫です?!」と声をかけると、ほうぼうから「だ、大丈夫です、、、」と返答があって、つまり誰も大丈夫じゃなかった。おばさんは顎でわたしにお辞儀してくれ、しかし次の駅でヨロヨロと降りていった。最寄駅で「すいません降ります~~」と言った瞬間に、豆のようにホームに弾き出されて、わたしは無事に粘土の中から生還して、酸素を吸い込むことが出来た。日本の誇るチームプレーとは多分これですかね。


職場では旧姓を使っている。名札を作り直すのとかが面倒なので放置しているだけなんだけど、そういう既婚者は他にも数人いて、何となく結婚しても仕事では名前を変えないのが職場ではスタンダードである。親しい人は愛称で呼ぶし、渾名は旧姓に基づいているし、結婚して5年くらい経つけれど、夫の姓で呼ばれる機会は普段では病院と郵便屋さんくらいなので、未だにあまり馴れない。

だいたい夫自体、夫のお母さんが離婚した時にお母さんだけ籍を抜いていて、夫が母方の姓になったのはだいぶ遅れて大学生になってからだそうで、今の名前より旧姓の方が歴が長いのだそうだ。なので、わたし達はあまり名前に拘りがない。苗字じゃない名前の方も、割と安直系の名付けで、命名のすんごい逸話とか理由とか無いので、別に思い入れもない。結果的に今の氏名はわたしも夫も気に入っているけれど。


各場面で呼ばれる名前が違うのは、すごく気に入っている。愛称もいろいろで、学生時代からの友達はあまり名前を短縮しないのに、東京の友達は短縮系でちゃん付けで呼ぶ人が多く、夫もわたしをちゃん付けで呼ぶ。わたしも夫はちゃん付けで呼ぶ。なんだか本当の名前が無いみたいで大変心地が良い。わたしは夫と居る時〇〇ちゃんだけど、病院に行くと△△さんで、仕事に行くと□□さんで、友達からは〇〇〇ちゃんだったり◎◎◎ちゃんだったり、呼び捨てだったりするのだ。みんなそんなものだろうし当たり前なのだけど、なんか自由じゃないかしら。なんならイングリッシュネームも欲しいくらいだ。エリザベスとか。


わたしはでも、名前があるということ自体に喜びを感じる。物にはそれを呼ぶための名前がある。人間には個別に名前がある。

電車に轢かれた人にも、その肉片を電車からこそぎ取った人にも、走り回っている駅員さんにも、舌打ちしたサラリーマンにも、一反木綿のおばさんにも、名前がある。呼ばれなくなった名前の持ち主のことは、わたしの世界の遠い(もしくは近い)喪失だし、届く時にその名前を呼ぶ声があればよかったと思ってしまうけれど、呼ばなかったのはわたしでもある。

今日は無性に、淋しくて、淋しいまま苺を食べた。