大匙2のご飯

摂食障害は金持ちの努力家なお嬢の特権的な病だと思っていた。バレエも新体操もフィギュアもお嬢の習い事だし、それらのハードなお稽古を思春期まで継続しているのは完全に頑張り屋さんでしょ。そういう人がなる印象。
小説に出てくる摂食障害は、アメリカの小金持ち家庭の白人のバレリーナとかだったし。あとは母親が厳しめというイメージ。宮沢りえとりえママとか。なんていうかお母さんよりママって感じの親子関係を想像していた。

高校の時、隣の隣の隣のクラスに拒食症の子がいた。わたしは学年の馬鹿が集まる端のクラスにいて、わたしの教室から距離が遠いほど頭のいい理系の教室になる。その子は文系では頭のいい方のクラスに居た。白くて死ぬ程細かった。あんなに細くなっても別に死なないんだ、と思った。
当時制服のスカートは馬鹿みたいに短くするのが普通で、階段で上を見上げると踊り場の同級生のパンツが見えた。アホな丈のスカート、露出した足にルーズソックスか紺のハイソックス。この勢力から逃れた者は数人で、拒食症の子はその1人だった。
わたしもご多分にもれずスカートを膝上15センチにカットしたので、足の太さには毎日自己嫌悪になった。根性がないのでダイエットなんて1ミリも出来ないし、足の毛を剃るのすら面倒で、早い段階で「女子高生」を諦めることにした。花より団子を掲げてニーソックスとタイツを愛用することで、ワカメちゃんスカートと足毛の問題を取っ払うことに成功した。わたしは16歳界の勝組だったと思うけど、友達には変わり者だと言われた。毎日細い足のことばかり考えて比べるほうが変だって。
諸々悪目立ちしてはいたんだけど、おかげでクラスに定員2名程度な変わり者枠に入り込めたので、言いたい放題言ってやりたい放題やってのびのび生活していた。太い足にタイツ履いて髪をオレンジのくるくるパーマにして生徒指導とバトルし、屋上で煙草を吸い、図書室の司書の先生とお茶をした。
友達にCDを返すために賢い人の教室に行くと、その友達もバレエをやっていて強迫的に体型を気にしている子だったけど、彼女の前の席がずばり拒食症の子の席だった。身なりを綺麗にしてるなぁといつも思った。髪留めとかお化粧が可愛いかった。細すぎる以外は何も違和感がない。
死にそうに細いのに、違和感がなさすぎることが、なんだかざわざわした気持ちにさせる。あの子の手にある歪な突起が、吐きダコという名前であることを知ったのは、もっと後のことだった。

細いとか太いとかには、環境とか食生活とか以外にも体質的なことが存在する。
わたしより食べてなくても太い人もいるし、わたしより食べてても細い人もいる。(わたしはよく食べる女だけど)
全然よくわかんないけど、予想ではホルモンとか血流とか血糖値とかそういうあたりのアレコレが個人差があるんじゃないかな。体温とかさ。
なんでも自己責任って言うなー。十把一絡げにするんじゃない。

フランス政府がBMIが18以下のモデルの起用に罰金を取ることを決めたらしい。これって結構すごいと思う。だってショーモデルって多分BMI16とかくらいじゃないのかな。
数年前にシャネルのカール・ラガーフェルドが「ファッションは幻想だ。丸い女など見たくない。」とかなんとか言ってた気がするけど、これからはシャネルも痩せすぎなモデルは使えないんだな。痩せすぎが美しいかどうかは人の価値観によるし、超痩せていることに美を見出すのもアリだとは思うんだけど、モデルがサイズ0であり続けるのは倫理的に人道的に良くないことは確かだと思う。芸術や幻想の体現なる仕事をするのは結構だけど、生きてこその芸術だよ。雇ってるのはどうせオッサンなんでしょ。オッサンやオバハンが謎哲学で自分でやるならいいけど、若い娘さんを捕まえてってとこが、モデルの問題とかメディアイメージの話で1番嫌なところだと思う。

欧米は摂食障害が多いだろうけど、一般の人が恐るべく均等に痩せなきゃと思っているのは日本とか韓国とかだと思う。少女時代もAKBも絶対スプーン二杯くらいしか米食ってないだろ、と思う。そんで少女時代みたいな人ソウルにいたし、AKBみたいな人東京で見るもの。韓国は兵役の影響で男はマッチョがいいみたいなんだけど、インスタとか見てると女の人は日本と同じくらい強迫的に痩せようとしているみたいに思える。
そんで韓国の男も日本の男も何だかんだ痩せてる女が好きそう。ダイエットまでも男のことが織込み済みかと思うとげんなりしちゃう。そりゃ骨と皮にまでなったら男なんて関係ないんだろうけどさ。
それは本当に自分の為のダイエットなのか甚だ疑問だけど、でも自分の為って言い切っちゃうのが韓国や日本のガールズなんだろうな。男が織込み済みの領域で女同士で比較し合うことは、かなり不毛だと思うけど、当分変わらないような気がする。
わたしも日本人だから、痩せたら生き生きするって思うのはとてもわかるし、実際痩せたら生き生きするのも知っている。でもずっとそれを維持するのって、摂食障害の領域じゃなくても、多分キツイ。みんな暇なわけではないしさ。
セレブはお金と時間をかけてスムージー飲んでフィットネスしてればいいけど、その正義、正直しんどいよ。餃子とビールで一息つかせてくれ。

さて最近では過食嘔吐とかただの過食とかが多いらしい。拒食症から過食症になるのもパターンらしい。ネットによるとチューブ吐きとかいう末恐ろしい嘔吐の方法があるらしく、その他にも色々あって、そういう人たちは摂取したカロリーは出してしまうので太っていないことが多いらしい。闇が深過ぎる。
わたしは最初精神科で境界性人格障害ということになっていて、そのイメージ通りに物凄い愚行の数々を展開していたんだけど、わたしも含めこの手の人って何もかも対人関係に持ち込んで勝手に盛り上がったり盛り下がったりする。それはよく考えると、相手がいるから出来ることだ。母親でも、友達でも、医者でもなんでも。闇は深い場合もあるだろうけど、人間への信頼が残っているんだと思う。めちゃくちゃ無意味で不毛だけど、対峙できる人間を失っていない。勝手にリングに引き上げる能力すら残存していると思う。
摂食障害の人にもこういう人は多そうだけど、そしてやっぱりそういう人が対峙するのは母親なのかなという気はするけど、昔よく言われた女性性を拒否するみたいな話では、段々無くなってきていると感じる。対母親、対女性、対大人みたいなことよりも、もっと孤独なように思う。そういう小説のバレリーナのストーリーよりも、なんとなくアルコール依存症で足が壊死したおじさんのことを思い出す。
わたしの大学病院の頃の待合室は、摂食障害だらけだった。先生がその専門だったから。わたしと手洗いがヤバイ男の子以外、摂食障害だった。
ヤクザの奥さんはガリガリで、ゴスロリはパンパンだった。ボーイッシュで寡黙な子は吐いているという話だった。入院中は、もうエイリアンみたいになって性別も年齢もわからない20キロくらいの人が居た。でもお見舞いに来ていた兄妹の年齢からすると彼女はわたしより少し年上くらいで、妹さんの美貌から推し量るに、本来はかなりの背の高い美人な可能性があった。若い時期を何がかなしゅーてこんな所で、、、と自分のことは棚に上げて切なくなる。髪が抜けて管が刺さってても、人間は思いの外元気に動ける。逆にハイになるのかもしれない。
彼女がついに個室で管人間になって、一歩も動けなくされたところまでは見た。死んでないといい、とはわたしは安易に思えなかった。ここから再スタートしろというのも、鬼のように感じる。

わたしは食いしん坊だし、キッチン画像収集家だし、エセフェミニストだから、摂食障害は関心事のひとつだ。
食べないとかマジでヤバイし、食べて吐くとかマジで悲しい。ガリガリじゃなくても自信が持てて、肯定されてほしいし、ついでにわたしのだらしなボディも肯定されたい。
最近はムキムキの黒人バレリーナもいるし、ぽっちゃりなスーパーモデルもいるし、そんな感じで色んな分野で色んな風に多様性が生まれると、少し優しいと思う。

オードリー・ヘップバーンにもマリリン・モンローにも1億光年の距離を置くわたしは、シャルロット・ゲンズブールのスレンダーに羨望の溜息をつきつつ、今日も別に体重計なんて乗らない。
辛ラーメンに卵を入れて、牛乳を飲む。でも体脂肪率30パーはマズイかも。
漠然とやばいなぁと思いつつ、めんどくせぇ、と思い直す。2杯目の牛乳をコップに注いだ。
大丈夫だよ。全然、大丈夫さ。