ロスト・ガールズ

女の子との関係はずっと不思議に感じる。もうわたしも友達も女の子って言ったらしばかれる年齢だけど、その時の流れも含めて、彼女達との関係は、濃く薄く、失われながら、しかし繋がっている。
男女関係よりもずっと複雑で嫌らしく、けれども優しくて、気遣いがあると思う。しんどい部分はあるけど。
アッサリと単純な夫の交友関係を見ていると、清々しくていいと思うと共に、物足りなさを感じてしまうよ。
女は繊細だけど、まあ強いから、繊細さを転がして遊ぶのが楽しいのよ。

30代ともなると友達の結婚や出産や仕事の繁忙で、どんどん立場が違って行き、連絡を取らなくなったり、すれ違ったりする。そうした喪失みたいなものを含めて、愛おしいと思う。わたしはちょっとキモいんだよね。分かってます。
かつて無駄にお茶ばかりしていた同志が、もうお茶できる距離に居なくて、お茶しようと言ってくれる心持ちにもなくて、それは淋しいような気もしないではないけど、淋しさも含めて彼女らの喪失が荷物にならない。

喪失自体がずっと関係の1つの要素で、喪失が起こった出来事よりも、喪失し続ける物語の方が本質で、それを抱えていてもお互いに負担ではないのが女同士の友情だと感じる。

昔はよく女の子と2人でカラオケに行った。その時はいつでもこうやってカラオケ出来ると思っていたけど、距離が離れて、彼女達が結婚して、わたしも結婚して、女の子と2人のカラオケは多分この先もうあまりないと思う。気軽にやっていたことが、特別に思われるようになるなんて、予想していなかった。
こうやってどんどん失われていく。
不思議と、置き去りにされたり捨てられたりみたいな気は一切起こらない。わたしだって、1人で勝手に歩いているからなぁ。

女友達はみんなとても気を使う。暇で誰かと飲みたいって時でも、わたしが脳裏に浮かんだところで、直ぐにLINEしないで一拍悩む人ばっかりだ。わたしもそういう風にして、やっぱり迷惑だろうから誘うのはやめよう、となったことは何回もある。
でも最近は方針を転換した。だって老い先たかだか50年くらいなのに、会いたい時に会わなきゃ、死んだら会えないでしょ。
会ったって何したって喪失はされ続けるのだから、失う瞬間を見たいし、喪失後の彼女を新しく見つめたい。
喪失と再発見のなだらかな繰り返し、それが出来るだけなだらかであるように捧げられる気遣いと優しさ。そういうことの根底にあるのは、共有した時間の記憶と、友達としてのやっぱり気の置けなさなんだと思う。

そんなこんなで女友達は、迷惑じゃないか心配症気味なので、わたしは敢えて(本当は敢えてでもないけど)不躾になんでも聞き、空気を読まずにLINEし、手紙を送り、元気にやっているのか尋ねる。君にかまってほしいからさ。
彼女らはわたしの成長してなさに、笑う。
意外と本当に喜んでくれたりするので、ちょっと調子に乗っちゃう。


でも成長しまくった彼女達のこと、わたしはちゃんと解放してあげようと思う。
わたし自身は別に解放されなくても平気だ。失われて無くなってしまっても平気だし、失われ続けるのを見せられたって平気。ずっと新しい彼女達を見ることが出来る。
とりあえず「相槌打つよ、君の弱さを探すために」ていうくるりの歌の歌詞みたいなキモい気持ちは捨てたさ。
老人になった時に思い出してもらって、また一緒にお茶が飲めると、とっても嬉しいけどね。