摂氏35度

最近、満員電車で立ちっぱなしの朝の通勤にうんざりして、各駅停車の始発駅で乗り換えて座ることにした。

座れるのは素晴らしいのだけど、準急に乗るより遥かに時間がかかるので、早く家を出ないといけない。仕方がないです。


7時過ぎに家を出て歩く。まだ朝ご飯の時間なのに、日差しが強くてサンダルからはみ出た足の甲がジリジリと赤く焼ける。

駅には人間が溢れていた。人身事故のアナウンスが流れている。負傷者を救出中、と言っていた。それがどういうことなのか、よくわからない。生きてるってことでいいんだろうか。

この路線の人身事故の多さは異常で、お正月は三が日の間に4人が亡くなった。今年に入って通算17回目の人身事故らしかった。

ホームドアをつけて踏切を高架にしたら良さそうに思うけれど、出来ないのかしら。沿線には踏切が多くて、踏切から線路に入るパターンの自殺が多いと聞く。実際最寄駅の近くにも踏切はあるし、わたしだってやろうと思えば線路に入ることは簡単にできる。急行は止まらないしホームドアも全然ないから、ホームから飛び込むことも可能だ。

人を轢いて点検が済んだばかりの車両に乗って、会社に行く。

人身事故が多い理由として有力なのは、損害賠償の額が他の鉄道会社よりずっと少ないことだそうです。1度巨額の賠償を遺族に求めた所、その遺族も自殺してしまったということがあって、それ以来あまり請求できないんだって。


わたしは、電車に轢かれて死のうというほどの絶望を抱く人が、実際に轢かれた人だけで今年17人もいることに驚く。希死念慮じゃない、自殺企図じゃない、自殺が17だ。

電車に轢かれて肉片や内臓が飛び散って、車輪に詰まって、それを取り除かないといけない職業の人がいて、朝からホームで長時間立ちつくした挙句にギュウギュウ詰めの電車に乗り込む労働者の群れがいて、そして何もなかったかのような日常の回復があり、同様の自殺が繰り返される。そのことは周知の事実ですぐに想像できる「最悪」だけど、そんなことより切迫した「もっと最悪」があって、電車に轢かれることで逃れられるのかと思うと、選択肢の悲惨さがしんどい。


今朝は120分の遅延だった。

踏切から線路に入って寝そべっていたのは、中年の女性らしい。なんとその人は生きているそうだ。腕を怪我したが生きているとニュースにあった。

腕があるかどうかはわからないけど、今朝の負傷者を救出中のアナウンスは、そのままの意味だったみたい。一瞬、良かった、と思った。でもその人としたら、やはり死んだ方がマシかも知れない。わからない。


「月曜の朝から勘弁してよね」「電車で死ぬのはやめようよ。他でやろうよ」と会社の人が言った。ツイッターで見た。(ツイッターで見たのはあらかたもっと酷い言い方だったし、今朝の人について『しかも死にぞこなってる』と書く人もいた。)

わたしは疑問なのですが、自殺者にとって、2回目は無いじゃないですか。死ぬんだから。月曜だから「勘弁」出来たり、電車は「やめておいて」しっぽり東尋坊まで旅に出たり、そんな風に自分を死にやった世界の住人に、今後に及んで気を回したいと思うかしら。知らんがなって感じだと思うけど。

共感なんて何も無いんだな、と思った。神様は居ません。ホームドアもありません。鉄道員は大変な仕事です。私たちはホームに立つ亡霊のよう。

わたしはそれでも、今朝の女性が生きていることは、そのことをひとまず「良かった」と言うことは、正しいと思う。

正しさを語ることは正しくないけれど、困って踏切をくぐって自ら最強にグロい姿になって死んでいった人、そうあろうと決意して躊躇って一部を吹っ飛ばされてこれからも生きる人、そのハードモードの人生を笑うのは、間違っていると思う。わたしは多分怒っている。腹が立っています。

神様は居ません。人生が沢山あるだけ。ホームドアをつけるよりも、本当はこの地域の経済的な困難を解決したほうがいいんだろう。

でもそれってどうやるんだろう。困ってしまう。

死ぬのが悪いなんて言えない。死にたい奴は死ねばいいけど電車で死ぬな!と言う奴を見ると、何故自分が電車に飛び込む可能性を無視できるのだろうかと思う。

正しさは履行されない。それでもわたしはクソみたいな日常で、クソみたいな日常のピースになれなかった人の事を考えたい。

本音としては、いつだって善き人間でありたい。自分の為に、納得できるようにしたい。

神さまは居ないけど、わたしは時には孤独な伝道師になることも辞さない覚悟です。だってその方がちょっとはマシでしょ。多分。