いじめとショートケーキ、椿象について

学校に行きたくない。今でもたまに、このフレーズが頭に浮かぶ。曇った朝に。眩しい日差しに。鳩の鳴き声に。

わたしは大人なので、当たり前だけれど学校に行かなくていい。ああ、もう学校には行かなくてもいいんだった、とすぐ気が付いて、それから少し気まずい気分になる。

 

現在大人のわたしは、仕事に行きたくないな、とはよく思う。でも仕事はお金がもらえるし、水浸しにならないし、子供が居ないし、大人が居るけれど、まぁマシだよ。

 

中学校は、県の不登校児の集計にカウントされる程度には、行っていない。いじめられていて辛かったから。

相手の様子はあまり覚えていないけれど、間近に見る教室の床の木目とか、廊下のリノリウムの冷たさとか、散らばって行く画鋲とか、濡れた制服の重さとか、視線の痛さは、これはフラッシュバックというと大げさなんだろうな。でも不穏なワンカットが、平穏な生活に水を差す。

それでも、それはもう今起こっていることではないし、大人のわたしはいちいち構っていられる程暇ではないし、別にいいんだけど。

 

子供は、あまり生きていないし、バカだから、子供同士傷つけるのは仕方ないと思う。「リリィ・シュシュのすべて」も大津いじめ殺人事件も、わたしにとっては特段過激な出来事ではなくて、そこそこの現実的な日常に捉えられる。

絶望しても、生きていれば、絶望が支えてくれる時間がある。だけれど死んでしまったら、それは道端でごろごろ死んでいる椿象の、その死と並列に、ただ事象としての死があるだけだ。

人間も、殴ったり窒息したりすれば簡単に死ぬし、そのことは基本的に平等だけれど、それ以外のほとんどのことは平等ではないから、いじめられる人も、いじめられない人もいる。

単に、偶然。

いじめられっ子全般に対して言えることがあるとすれば、「逃げろ」だけだ。虫の生活じゃなく、逃げて、人間の生活を手に入れてほしい。

余談で、これは結構ホラーなんだけれど、中学時代のいじめっ子の1人は、今は保母さんである。

 

 

夫と一緒に近所を歩いていて、ケーキを食べよう、ということになった。ベリータルトが美味しいケーキ屋さんで、ベリータルトと白桃のショートケーキを買った。

家に帰って、コーヒーを淹れて、テレビの前で食べる。バターと卵の素朴な味がして、生クリームは甘過ぎなくて、白桃はごろごろ入っていた。

何でもない日の生クリームは贅沢で、ちょっと良かった。

いつ死ぬかわからないし、こういう生クリーム的余剰の幸福を、月一回くらい取り入れたっていいかな。