スーサイドモーニング

自殺は既遂ならいいが(本人にとっては)、失敗した場合のダサさと、その後の展開の悲惨さがハイレベルである(皆にとって)。

わたしのようなビビりだと更にリスクは増す。

 

 

東武東上線は人身事故の多さで有名だ。わたしの最寄駅は急行が停まらないので、ホームドアのないこういった駅は確かに飛び込みやすそうである。実際には駅からというより、踏切での自殺が多いようだけど。

人混みのホームに流れる人身事故のアナウンスと、ほうぼうから聞こえる会社に遅刻の連絡を入れる声が重なる。

勿論わたしも、皆と同じように会社に遅れる旨を伝える。

電話を切りながら、このホームに佇む人達の中に、死んだ人や電車に飛び込む行動について、自分に当てはめてみる人はどの位いるのかと考える。

 

迷惑そうにしている人もいるけれど、その死について同情している人は、割合多いんじゃないかと思う。

電車に飛び込む人は飛び込む前の生きている時より、アナウンスになった時の一瞬の方が他人との親和性が高いような気がして、余計にゾッとする。

 

 

自殺する程の絶望に、暫く出会っていない。

勝手に死んではいけないという考えは、共感は出来ないけれど、例えば路上で排便してはいけないといったことと同列に、当たり前の悪いことにしておくのは、生きていくならその方が楽だと思う。

お箸の持ち方は綺麗な方がいい、シンクは小まめに掃除する、アインシュタインは頭がいい、東京は人が多い、自殺はよくない。常識。

 

 

常識ってたまにファックだなと思うけど、仕方ない。

生きることに何故も何もないし、仕方ないし、問答無用の大丈夫だし、思うだけでは現実の死とは全然関係ない。

それでもわたしは全然関係ない誰かの自殺について「ああなってはいけない」と「あのようにはなれない」が経過した後、絶望か人間か何かに殺された誰かのことを、知りもしない誰かの不在を、少し噛みしめる。

5分後にはそれはやめて、地獄のような満員電車に乗るべくリュックを前に抱え込み、スマホでパズルゲームをする。

死ぬ人もいる。生きている人もいる。死にたい人もいる。生きたい人もいる。でも、自殺は非常識だからしてはいけない。

ファッキンブルーな朝にムクドリが頭が割れそうな程鳴いている。