触れない

 テレビから流れる絶望的なニュースと、現実の生活が乖離している。人々も私も解離している。
 解離した人格はマスクでのみ同一性を保っている。不織布一枚の不自由が、物言いたげな口元も、言うことがなくなってつぐんだままの口元も、唇を噛み締めて滲んだ鉄の味も覆い隠す。マスクの生活にはだいぶ慣れた。
 
 職場のマネージャーが「我々はエッセンシャルワーカーだから、仕事は絶対に止められない」と演説していた。「我々」は呆気にとられる。彼も仕事では解離を呈しているのであろう。それとも平野啓一郎の言うところの分人だろうか。

 

 マスクでもしないと、外にも出られない。手袋をしないと、あなたにさわれない。さわれない、さわれない。イヤホンからそんな歌詞が流れてくる。それはアレルギーという歌なのだけど。
 昼に休憩室に居るのが好きではないので、喫茶店に来た。緊急事態宣言で休業する店が多いけれど、チェーンのカフェは割と開いている。仕事は忙しかった。午前だけで、1日分くらいの電話が鳴る。私は心底うんざりしていた。うんざり、げんなり、どんより、しょんぼり、ばたんきゅー。手袋をしないと、あなたにさわれない。さわれない、さわれない−。

 セパゾンに意味があるのかはわからないけれど、意義はあるというか、つまりは気休めとして儀式的な役割は果たしていた。セパゾンを飲まないと、椅子に座っているのすら居た堪れなくなってくるので、やはり役に立っていると言える。私は元気だが鬱を呈している。なぜそう思うかと言うと、検索履歴が自殺とか自殺とか自殺だからである。